人生の意味
人間関係の知恵 ・・・・・・ の三部 三十編 構成で継続掲載します。
能力の発揮


親鸞の教え 「 仏語 」に学び、現在の企業経営に又 私たちの人生に取り入れるべき、考え方などを課題提議する内容で 小冊子にまとめ上げました。 親鸞の教え 「 仏語 」の解説 : 課題解決方法をまとめた物ではありません。三部三十編で構成 しておりますが 各章 は私たちがそれぞれの項目に対して話し合った内容を「 結果 」それらの章 「 人生の意味 : 人間関係 : 能力の発揮 」に 層別区分したものです。

読まれて皆様の思い感想などメール頂ければ幸いです。

.


目 次 :人生の意味
項 目 せつめい
無有代者
むうだいしゃ
少欲知足
しょうよくちそく
日々是好日
ひびこれこうじつ
五濁悪世
ごじょくあくせ
自灯明法灯明
じとうみょうほうとうみょう
念仏者は無碍の一道なりねんぶつものはむげのいちどうなり
四門出遊しもんしゅつゆう
唯我独尊ゆいがどくそん
一如
いちにょ
空過
くうか
帰命
きみょう



一章 「人生の意味」


空過
「くうか」

空しく過ぎる。これほど恐ろしい響きを持つ言葉はないように思います。
私の歩んで来た道、私が大事にしてきたもの、それらの事柄がすべて壊れてしまう、ということです。
私が生きるうえでの拠り処を有限に求めるならば、それは必ず空過の生に終わってしまうでしょう。人( 親・子・友 )、お金、物、権力、名誉等に拠り処を求めても、これらは有限で必ず崩れてしまうものです。
しかし、拠り処を決して壊れることのない無限、つまり、神、仏に求めることにより、壊れていくものを本当に大事にするという心が芽生えてくるかも知れません。
この世の中で悩みや不安を全く持たないという人はいないかも知れません。職場における人間関係や仕事のうえでの悩み、健康面での悩みや不安、金銭面、家庭・・・・・等数えればきりがない程、私達は常に何らかの心配事や不安と直面しながら、日々生活をおくっています。しかし私達は、心配事や不安に脅え、すくんでいるのではなく、その都度、思案しながら解決への道を探りだし、自分を励ましつつ、賢明に憂苦を克服して事なきを得ているのかも知れません。言い換えれば、心配事や悩みは次の新しいものを考えだすエネルギーとなっているのではないでしょうか。


目 次 へ


一章 「人生の意味」


一如
「いちにょ」

「一つの如し」明治の画家で堂本印象という方がおられます。
京都の衣笠に彼の美術館があり、生涯を画一筋で生きられた人です。若い頃は具象画を中心に、日本画、洋画、あらゆる画法を研究されました。具象画をいくら精密に描いても、そのものの心が表現出来ないと苦しまれます。
その答えが、抽象画だったのです。『そのものの心を表現したい。』という気持ちが数百点にわたる画から読み取れます。
また彼の年齢順に並べられた画は、その苦しみの軌跡であります。最後のコーナーに初めて彼の言葉が自筆で書かれてありました。
「物心一如」と・・・・・・・

現代人として我々は、目で見える形在るものだけを信頼していきています。しかし形在るものだけに執着しますと、そのものの本質が見失われます。
私たち人間社会においても、初めて出会った第一印象で人の善し悪しを判断してはいないでしょうか。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」このことわざのように、馬には乗ってみなければ癖が分からないし、人も親しく交わって後にその人の性質が分かるもので、軽々しく外見だけで判断してはいけない。
つまり形を通して本質を知るということが必要なのです。そのことを教えてくれているのが堂本印象の生涯で最後に到達できた心境が、「物心一如」であったのです。
「物心一如」はまた、「物仏一如」ということであります。


目 次 へ


一章 「人生の意味」


唯我独尊
「ゆいがどくそん」

釈尊が誕生されたときの言葉で、「天の上にも、天の下にも、ただ我ひとり尊い。」といわれた言葉です。
つまり、何人も人としてこの世に命を賜って誕生したことが尊いことであり、ひとつしかない命の平等性をお互いが認め合って、お互いに尊敬することが共生への第1歩であるということです。

人間は、生まれる時と死ぬ時は一人ですが、人生一人では生きられないといいます。家庭、地域、職場等、すべてにおいて人との和を大切にする強調心がなければ人間関係は成り立ちません。
現代、社会現象として、物理的に豊かであればあるほど精神の不安がますます増え、いのちを軽く扱う傾向にあります。人間として生まれ、生きることが命の願いであります。
常に生きて、生かされているという感謝の気持ちで、一日一日を大切に明るく生きようと努力するならば、何事に於いても強い満足感をえることが出来るのではないでしょうか。
やりがい、生きがい、人間だけが感じる精神的な満足感こそが、生きるエネルギー源ではないでしょうか。


目 次 へ


一章 「人生の意味」


四門出遊
「しもんしゅつゆう」

釈尊の出家の動機として伝えられているものに「四門出遊」という言葉があります。この言葉の意味は、四門即ち日常生活を営む上で四苦(生老病死)という誰しも免れ得ない苦悩に真っ正面から立ち向かうエネルギーを授かるために、それぞれの門を出て外を観る、出遊することにより苦悩からの開放になるという意味です。私たちの人生では、見たくない、聞きたくない、私でなくてよかったなど、いろいろな事に遭遇して生き、やがて老い、病にかかり死を迎える訳ですが、それぞれの苦悩を避けることなく真正面から受け、攻める。このためには澄んだ目をもって本当の生き方とは何かを、外へ出て観察することが必要だと言っているのです。これに似た言葉で松下幸之助翁は「自己観照」という表現で次のように述べられておられます。
「自己観照をするためには、自分の心をいったん自分の身体から取り出して、遠くに離して眺めてみる必要がある。外から攻めて自分というものを見直してみるのである。そうすると、ここはいいけれど、この点はよくないといったことが分かってくる。しかし、実際には自分の心を外へ離してみることは、なかなか容易ではない。その場合には他人の力を借りればよい。上司や先輩あるいは部下や友人に自分の欠点はどこにあるのかを尋ねてみる。そうすれば、他人は自分より良く見ているもので、自己観照をするのと同じ結果が得られるものだ。肝心なのは自己観照こそ大切だと考え、これを正しく行って過ちなきを期していこうという志を持つ事である。その志がある限り自分自身での、あるいは他人の力を借りての正しい自己観照が必ずできて、何を成すべきかがわかってくる。過ちなき道を歩む事が可能になる。」


目 次 へ


一章 「人生の意味」


念仏者は無碍の一道なり
「ねんぶつものはむげのいちどうなり」

念仏者は、まったく迷いがなく、また自由な思考や行動を邪魔するものがないことによっり、一本道の人生を生きてゆけることの様子をいいます。
私たちの身の廻りには、多くの迷わされるものがあります。日の善し悪し、方角の善し悪し、占い、因習、それらにいつも振り回されて生きているのが実情であります。それらは、私たち人間が長い歴史の中で生み出してきたもので、そこには本当の豊かさは存在しないものです。吉凶禍福に一喜一憂することのない人生こそ、障りなき一本道と言えます。
環境の変化に挑戦し、能動的に生き、心の豊かな人生を築き上げてゆきたいものです。

人間としての喜び そして生きがいとは、
@ 自己の有意義な「なにか」を創り出す
A 報われることを期待するのではなく、一途に何かに全力をぶつける。

豊かさを享受することが幸せでなく、より高い豊かさを創り出していく努力が、幸せと考えてはいかがでしょうか。
人によって、いろいろな生き方があるのであるから、どのような人生を歩もうと勝手ということになりますが、問題は、強く、たくましく生きると決意するかどうかということです。「生きがい」とは、結局自分自身の問題であるのだから、自己との戦いの結果、生きがいを自ら拒むことができるように自己変革し、自己実現の欲求を満足するよう努力することが、人生の本当の豊かさということになるのではないでしょうか。人生とは、熱く燃えることでもあると言えます。


目 次 へ


一章 「人生の意味」


自灯明法灯明 「じとうみょう ほうとうみょう」

「本当の自分を灯(拠り処)にし、法(真理、仏説)を灯として生きてゆきなさい」:釈迦の臨終の教え
「釈迦滅後、私は何を依り処に生きてゆけばよいのでしょうか」・・・・・阿難(アーナンダ、多聞第一、釈迦十大弟子の一人)が問いかけをされ、出された答えを言います。

本当の自分とは何でしょうか。本当の自分はどうやって見つけるのでしょうか。自分のことは自分が一番よく知っているとよく言われますが真実でしょうかね?
「自分とは何ぞや、これ人生の根本問題なり」(清沢満之)
「仏道を習うは自己をならうなり」(道元禅師)

自分をすべて知っているか?癖は解らないことが多い、「人の振り見て我が振り直せ」自分自身では自分を律することは難しいなど話題になりました。
「名選手名監督にあらず」などをどのようにとらえるべきべきでしょうか?名選手は自分個人の力量をタイミング良く発揮すればよい、大リーグの野茂投手も最初は勝利投手になれなかったが三振奪取はできた。その後勝利投手になったが完投はできなかった(出来る時もあったように思う)、監督(球団、国)は自分でプレーしないが良い選手を集めることができる、又伸ばすこともできる なぜ日本で成功しないで米国でビックスターになれたのか?興味深いところであります。

案外知っているようで解らない自分、ひいき目で見ることが多いのではないでしょうか、相手は自分の解らない部分も知っている、これらは個性と言われておりあまり好まれない部分であるように評価されていますが、これからは重要な条件になるようにおもわれます、自分を正しく認識できることは次に不足しているところをどのようにカバーするか、レベルアップするか、どんな方法で、道具で、いつ、どの程度とつながって自己形成、自己伸長を図ることにつながっていかなければならないと思われます。
企業活動の成果、人生における成功など全て個個人の資質によるところが大きいようにおもわれます、又それらを分析すると知識でなく知恵の上積みで可能になるように思います。



目 次 へ




一章 「人生の意味」


五濁悪世 「ごじょくあくせ」

私たち人間は、生きて生かされているもので、常にお蔭様で・・・という感謝の気持ちが、私たちを一まわり大きくするものであります。
ひとつしかない命、心を強く持って今日一日を大切に体を動かし、脳を働かせ、手を使い、目を光らせていく事が人間基本の姿勢とも言えます。ところが、心の構造として本能・感情というものが邪魔をし、個性・物欲・所有欲・出世欲・権利欲が働き、ややもすると教育と体験によって進歩する知性・理性というものを見失ってしまう事になります。ひては神経過敏な人、臆病な人、取り越し苦労する人、愚痴ばかりいう人、根気のない人、自信のない人、イライラしやすい人など消極的人生に陥りやすくなってしまう訳です。苦悩を増大させてゆき解決の突破口が見出せない、このような現代のストレスの原因は自分の心の持ち方から生まれてくるという事を認識しなければなりません。また、このような人が多いことから、これらを認めることも大切です。五濁悪世の内容は次の通りですが、私たちが潔く明るく生きるために、日常心がけなければならない汚れのことが見事に示されています。

劫濁( こうじょく )
劫とは、仏教で極めて長い時間のことをいい、欲望中心として生きている人間がその時代を濁らせることをいいます。

見濁( けんじょく )
常に自分が正しい、自分が何事も善で他が悪いという汚れのことをいいます。

煩悩濁( ぼんのうじょく )
自分さえ良ければ他人はどうなってもいい汚れのことをいいます。

衆生濁( しゅじょうじょく )
人間の持てる資質・感性が退化し素直さがない、現状否定の態度、力がないことをいいます。

命濁( みようじょく )
いじめなどにより、命を軽く扱い結果的に尊い命が根こそぎ見失われてしまうことをいいます。



目 次 へ




一章 「人生の意味」


日々是好日 「ひびこれこうじつ」

一日一日が、みんないい日であることを言います。
たとえば、傘屋は雨が降る日は好い日であり、晴れの日は悪い日となり、大工さんは晴れの日は好い日であり、雨の日は 悪い日となります。
このように、人間はいつでも自己中心で物事を計り決める。自分の都合という「物差し」に合うか合わないかで、 日の好し悪しを決めることが多いものであります。
会社においても、その会社の利益だけを考えるならば、いつかは信頼を失い、結果不利益だけを被ることになります。 相手の利益を考えることが、実は私の利益につながるものです。
人生の生き方の中で、協調心を育てることは大切な要素です。相手の立場に立って考える心を涵養するとか、チームとしての 和を大切にする心を育てるとか、自分一人くらいはという気持ちをなくして会社に貢献する。つまり、利他心を強く持ち、 仮に誤った言動を注意されたり、気づいた時は素直にこれを認め、改めるという事が基本になると理解することです。
仕事の上でも日常生活のなかでも好い日、悪い日という比較をやめ、好悪を超える努力を積み上げていこうではありませんか。


目 次 へ




一章 「人生の意味」


少欲知足 「しょうよくちそく」

「 欲少なくして足るを知る 」 今ある自分に 満足するという意味ですが、 我々の在り方は大欲不知足である。
即ち、野球でいいますと、読売ジャイアンツは巨額を投資して選手の補強を図ったが首位にたてない。 したがって、未だに欲多くして満足していない。一方、ヤクルトスワローズは、昨年より大幅に戦力を 落としているにもかかわらず、首位を長くキープしている。
何故か、
野村監督がたてた今年の方針は少欲知足であった。
「 個知り、個生かし、個結ぶ 」 つまり、選手個々に持っている技能を生かし、伸び伸びとプレーさせる事で あった。これが今の成績に現れているのではないでしょうか。(95年6月頃作成しております)

仏教では、人間の計らいを煩悩と呼んでいる。その計らいの中で代表的なものを、煩悩の三毒と言います。

  1. 貪 欲 ( とんよく ) 貪りの心、他人を羨む、隣の芝が青く見える。
  2. 瞋 恚 ( し ん に ) 腹立ちの心、自分の意に合わないと怒りが生じる。
  3. 愚 痴 ( ぐ ち ) あの時こうしておけばという後悔、過去に囚われる。
煩悩は、自分と相手との比較より生じる。そして、最後には相手を傷付け自分自身を陥れる。しかし、 肉体をもつ限り煩悩から離れられないのが人間である。
「日々この三毒の中で、私たちは日暮ししている」私たちが、地位、名誉、財産等々を生きる拠り所に している限り、煩悩が主で、私が従の関係となり煩悩の奴隷となる訳です。
一時の満足が次の瞬間、限り無い欲望へ又、煩悩が駆り立てる。それは、まるで底の無い闇に落ちて行くのと 同じです。
しかし、どんな人間にも平等に健全な身体と心が支えてくれて、私の心が私を病気にすることがあるように、 私の心は私を元気づけることもあるのです。身体が運動を必要とするように、心にも新しい興味で 元気づけることが必要です。


目 次 へ




一章 「人生の意味」


無有代者 「むうだいしゃ」

「 独生独死 独去独来 当行之趣 苦楽之地 身自当之 無有代者 」
私の人生は一回きりであり、誰も代わることの出来ない人生であります。誰もが無常の時を生きている者であり、人として生まれた以上は一回限りの命を大切に今日一日、この一瞬を大切にしたいものです。
私は、今、ただ今を生きるものであります。「反省はしても、後悔はするな」
蓮如の言葉に、「 仏法には、明日と申す事、あるまじく候 」「 今日の日はあるまじきと思え 」とあります。私たちはいつも明日、明日となっていないでしょうか。

反省後悔はなぜ起きるのでしょうか? 話し合うとこんな話題に発展しましたが、皆さんはどのように理解されますでしょうか?

ゴルフのスコアー(成績)を後悔することがあります、これらは計画が曖昧で客観的な判断の"ものさし"のないところから、また結果のみを論じているところから出てくるのではないのでしょうか、具体的な計画と裏打ちされた技術力があり、目標に向かい日々努力をしているのであれば、それは反省となりゴルフの腕もおのずと上がってくるのではないのでしょうか。

明日もなく、今日もこの時間この一瞬しか無いと考えたときはどんな行動が必要なのでしょうか。
即断即決がポイント、判断力を高め実行力をもつ、一言で表現すればこのようになるのでしょうが、判断力は何を対象にするかで変化します、判断基準(ものさし・・・数値、幅)が明確で無ければならないでしょう、しかし数値とか幅だけを論じることは多くの問題を残す事につながる一面のあることも理解すべきであります。

代わる人が居なければどんな行動をとらなければならないのだろうか、身の回りの事例からひろってみました。
野球では、2ダウン1ストライクからでも必要であればピンチヒッターが起用されます、いつでもその場の局面に対応出来る人材がベンチに入っています。
能力の高い人がさらに毎日、レベルをあげる練習をしています。
一人一人の特徴を生かし育てることは時間と情熱が必要で、"教える側がその時代にあった能力を身につけ"ないと結果に結びつきません、すなわち自分が知り、やってみて、体で覚えたものを教えることが出来るのであれば、教えられる側もよく理解できるのではないでしょうか。

私達は日々精一杯生きている、明日のことは解らないと言います、その結果自分中心の生活となりがちですが、自分の生活行動が重要であればあるほど自分の代わりすなわち相手も又重要と考える行動、言動が必要となるように思われますし、自分一人で今どんなにガンバッテも出来ないことは、大いに回りの人に助けを求めることの出来る、素直な心の持ち主になれるようにしたいものです。

目 次 へ


★ 一章 人間関係の知恵 「 帰命 」で終わりです。


「tel」 当ホームページへ の電子メール:再びのご訪問をお待ちいたしております。

Emeil:murata@tvt.ne.jp


Next

「home」 「QMCの部屋へ」 [案内板] [心:二章へ]