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目 次 :人生の意味 | |
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項 目 | せつめい |
念仏者は無碍の一道なり | ねんぶつものはむげのいちどうなり |
四門出遊 | しもんしゅつゆう |
唯我独尊 | ゆいがどくそん |
空しく過ぎる。これほど恐ろしい響きを持つ言葉はないように思います。
私の歩んで来た道、私が大事にしてきたもの、それらの事柄がすべて壊れてしまう、ということです。
私が生きるうえでの拠り処を有限に求めるならば、それは必ず空過の生に終わってしまうでしょう。人( 親・子・友 )、お金、物、権力、名誉等に拠り処を求めても、これらは有限で必ず崩れてしまうものです。
しかし、拠り処を決して壊れることのない無限、つまり、神、仏に求めることにより、壊れていくものを本当に大事にするという心が芽生えてくるかも知れません。
この世の中で悩みや不安を全く持たないという人はいないかも知れません。職場における人間関係や仕事のうえでの悩み、健康面での悩みや不安、金銭面、家庭・・・・・等数えればきりがない程、私達は常に何らかの心配事や不安と直面しながら、日々生活をおくっています。しかし私達は、心配事や不安に脅え、すくんでいるのではなく、その都度、思案しながら解決への道を探りだし、自分を励ましつつ、賢明に憂苦を克服して事なきを得ているのかも知れません。言い換えれば、心配事や悩みは次の新しいものを考えだすエネルギーとなっているのではないでしょうか。
「一つの如し」明治の画家で堂本印象という方がおられます。
京都の衣笠に彼の美術館があり、生涯を画一筋で生きられた人です。若い頃は具象画を中心に、日本画、洋画、あらゆる画法を研究されました。具象画をいくら精密に描いても、そのものの心が表現出来ないと苦しまれます。
その答えが、抽象画だったのです。『そのものの心を表現したい。』という気持ちが数百点にわたる画から読み取れます。
また彼の年齢順に並べられた画は、その苦しみの軌跡であります。最後のコーナーに初めて彼の言葉が自筆で書かれてありました。
「物心一如」と・・・・・・・
現代人として我々は、目で見える形在るものだけを信頼していきています。しかし形在るものだけに執着しますと、そのものの本質が見失われます。
私たち人間社会においても、初めて出会った第一印象で人の善し悪しを判断してはいないでしょうか。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」このことわざのように、馬には乗ってみなければ癖が分からないし、人も親しく交わって後にその人の性質が分かるもので、軽々しく外見だけで判断してはいけない。
つまり形を通して本質を知るということが必要なのです。そのことを教えてくれているのが堂本印象の生涯で最後に到達できた心境が、「物心一如」であったのです。
「物心一如」はまた、「物仏一如」ということであります。
釈尊が誕生されたときの言葉で、「天の上にも、天の下にも、ただ我ひとり尊い。」といわれた言葉です。
つまり、何人も人としてこの世に命を賜って誕生したことが尊いことであり、ひとつしかない命の平等性をお互いが認め合って、お互いに尊敬することが共生への第1歩であるということです。
人間は、生まれる時と死ぬ時は一人ですが、人生一人では生きられないといいます。家庭、地域、職場等、すべてにおいて人との和を大切にする強調心がなければ人間関係は成り立ちません。
現代、社会現象として、物理的に豊かであればあるほど精神の不安がますます増え、いのちを軽く扱う傾向にあります。人間として生まれ、生きることが命の願いであります。
常に生きて、生かされているという感謝の気持ちで、一日一日を大切に明るく生きようと努力するならば、何事に於いても強い満足感をえることが出来るのではないでしょうか。
やりがい、生きがい、人間だけが感じる精神的な満足感こそが、生きるエネルギー源ではないでしょうか。
釈尊の出家の動機として伝えられているものに「四門出遊」という言葉があります。この言葉の意味は、四門即ち日常生活を営む上で四苦(生老病死)という誰しも免れ得ない苦悩に真っ正面から立ち向かうエネルギーを授かるために、それぞれの門を出て外を観る、出遊することにより苦悩からの開放になるという意味です。私たちの人生では、見たくない、聞きたくない、私でなくてよかったなど、いろいろな事に遭遇して生き、やがて老い、病にかかり死を迎える訳ですが、それぞれの苦悩を避けることなく真正面から受け、攻める。このためには澄んだ目をもって本当の生き方とは何かを、外へ出て観察することが必要だと言っているのです。これに似た言葉で松下幸之助翁は「自己観照」という表現で次のように述べられておられます。
「自己観照をするためには、自分の心をいったん自分の身体から取り出して、遠くに離して眺めてみる必要がある。外から攻めて自分というものを見直してみるのである。そうすると、ここはいいけれど、この点はよくないといったことが分かってくる。しかし、実際には自分の心を外へ離してみることは、なかなか容易ではない。その場合には他人の力を借りればよい。上司や先輩あるいは部下や友人に自分の欠点はどこにあるのかを尋ねてみる。そうすれば、他人は自分より良く見ているもので、自己観照をするのと同じ結果が得られるものだ。肝心なのは自己観照こそ大切だと考え、これを正しく行って過ちなきを期していこうという志を持つ事である。その志がある限り自分自身での、あるいは他人の力を借りての正しい自己観照が必ずできて、何を成すべきかがわかってくる。過ちなき道を歩む事が可能になる。」
念仏者は、まったく迷いがなく、また自由な思考や行動を邪魔するものがないことによっり、一本道の人生を生きてゆけることの様子をいいます。
私たちの身の廻りには、多くの迷わされるものがあります。日の善し悪し、方角の善し悪し、占い、因習、それらにいつも振り回されて生きているのが実情であります。それらは、私たち人間が長い歴史の中で生み出してきたもので、そこには本当の豊かさは存在しないものです。吉凶禍福に一喜一憂することのない人生こそ、障りなき一本道と言えます。
環境の変化に挑戦し、能動的に生き、心の豊かな人生を築き上げてゆきたいものです。
案外知っているようで解らない自分、ひいき目で見ることが多いのではないでしょうか、相手は自分の解らない部分も知っている、これらは個性と言われておりあまり好まれない部分であるように評価されていますが、これからは重要な条件になるようにおもわれます、自分を正しく認識できることは次に不足しているところをどのようにカバーするか、レベルアップするか、どんな方法で、道具で、いつ、どの程度とつながって自己形成、自己伸長を図ることにつながっていかなければならないと思われます。
企業活動の成果、人生における成功など全て個個人の資質によるところが大きいようにおもわれます、又それらを分析すると知識でなく知恵の上積みで可能になるように思います。
仏教では、人間の計らいを煩悩と呼んでいる。その計らいの中で代表的なものを、煩悩の三毒と言います。