目 次
項 目 せつめい
我行精進 忍終不悔
がぎょうしょうじん
にんじゅうふけ
解学 行学
げがくぎょうがく
一念発起
いちねんほっき
天命に安んじて人事を尽くす
てんめいにやすんじてじんじをつくす
有田憂田有宅憂宅
うでんうでん うたくうたく
一水四見
いっすいしけん
海一味
かいいちみ
自信教人信
じしんきょうにんしん
道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし
どうしんのなかにえじきありえじきのなかにどうしんなし
淤泥華( 維摩径 )
おでいけ

三章 「 能力の発揮 」

淤泥華( 維摩径 )
「 おでいけ 」

「高原の陸地には蓮華を生せず、卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず。」
インドの国花は蓮の花です。蓮の花は日当たりの良い水のきれいな場所には決して咲きません。日当たりの悪いじめじめした泥水であればこそ美しい花を咲かせるのです。
私たちが欲望で満ち満ちた獨世に生きていればこそ、その煩悩獨世のただ中に清浄なる仏の教えが花咲くのである、との譬えであります。

私達の人生においても幸せの絶頂期のは、この幸せが永久に続くと錯覚し、有頂天になりがちですが必ず正から負への転換があります。幸せの絶頂の時こそ有頂天になることなく、努力を怠らないことを心に刻みつけねばなりません。

企業においても、業績の良い時ほど心を引き締めねばならないのです。戦後、日本の産業が大きく伸びたのは、安くて良いものを徹底的につくり、そして世界の市場で評価されたからです。
その原動力がTQC活動であり、QCサークルでした。しかしバブルが崩壊しそして今日まで、品質管理はもう世界一になったと誰もが思っていたが、最近の飲料製品への異物混入が相次いでいる現状を見ると、単なる錯覚であったと言えるのではないでしょうか。
「山高ければ谷深し」
順風のとき、いかに危機感を持てるかがその企業、その人の力量を決定するのです。



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三章 「 能力の発揮 」

道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし
「 どうしんのなかにえじきありえじきのなかにどうしんなし 」

仏道を求めることを最優先すると、腹が決まれば衣食住は自ずと与えられる。しかし衣食住を満足させて仏道を求めることは、決して仏道成就にはならない、という意で求道の姿勢を注意した言葉であります。

二兎を追うは一兎も得ず、という諺があります。今与えられていること(仕事、家庭)一つに集中することが、そのものの成就の道であり、あれもこれもと欲張ると全部がダメになってしまうということであります。
プロスポーツのなかでもハングリーの中で成功を勝ち得た事例の多いボクシングはまさに充足のなかでは頂点が極められないものの代表のように評されております。今私たちをとりまく環境は戦後50年を経過する中で先人たちの努力で豊かになりました、必要なものは何時でも手に入る、生活のの中での安全も最近は課題が多くなってきておりますが他の国に比べれば良いのではないでしょうか、このような中でこの言葉を意識した行動がポイントであります。

経済は緩やかに回復基調にあり、などと言われておりますが海外から安い製品がどんどん入ってきて(消費者としては喜ばしいこと?)おります、このことは国内生産では価格対応出来なく生産基地が海外になって国内空洞化が加速していることに他ならないのではないでしょうか?すなわち仕事がなくなってゆくことを理解しなければなりません、厳しい環境が身近に迫っていることを十分認識すれば企業内での私たちの行動が変わらなければなりません。
一つの事に集中努力する、こつこつと行動を積み重ねる、失敗を生かす(転んでもただ起きない)、継続する、勉強を忘れない、など他にも色々考えられると思いますが道を求めて努力しましょう。努力は周りの人に影響を与えますし、影響を与えるような努力の仕方が今求められているのではないでしょうか。すなわち今日の環境をチャンスととらえることにより解決の道はおのづと与えられると信じて一つ一つの行動すべきではないでしょうか。



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三章 「 能力の発揮 」

自信教人信「 じしんきょうにんしん 」

自分が信じてこそ、他人を信ぜしめる。信心を獲得する心得を述べた言葉であります。
その信は、教えに生きている人に依り、私もこの人のように生きたいと願うことから始まる訳で、自ら行う事が出来なければ、他人を信じさせることは出来ないことになります。

信という字は、「人」という字に「言」という字が組み合わされて出来ています。つまり人間の言うことは、信頼出来るものでなければならない訳です。人間は、嘘をついたり、約束毎を守らないようではいけないという事です。

特に、リーダーは嘘や約束不履行、平気で二枚舌を使うようでは、部下の心をとらえることは出来ないという事で、人としての信頼感の大切さを説いた言葉ではないでしょうか。
職場で、この上司であればついて行きたい、この人の為なら苦労を厭わないという人はどんな人でしょうか。

まず、自分の立場がよく解っており、責任を全うする人であり、どんな些細な事にも情熱をもって挑める人など、いろいろな人物像が浮かびます。一言で言えば、自信教人信を生きている人と言えるのではないでしょうか。職場だけに限らず、家庭でも父親の背中の大きさを見て子供が安心し、育つと言われますし、人の集まるところでは、その責任者の人間性の磨き方が、部下のやる気のあるなしを決定するようにも思います。

皆さんは、自分を日頃からどう磨いておられますか。



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三章 「 能力の発揮 」

海一味「 かいいちみ 」

「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう にょしゅうしにゅうかいいちみ)」

凡聖、逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるが如し、という親鸞聖人のお言葉です。
仏教の教えに深く信仰するならば、善人悪人を問わずどんな人も仏の慈悲に摂取され、これはまるで清濁あわせ持つ大海のようであるという意味であります。
仏の働きを海にたとえたお言葉です。海にはあらゆる水が流れ込んできます。汚れた水、変色した水などおよそあらゆるものの最後の受け皿で、それらを浄化する働きを同時に兼ね備えています。

私たちの周囲では人間を評価する言葉として、清濁あわせ飲む人ということがよく言われます。度量が大きくて、物事の対応に的確に対応できる人を指すものであります。
このような人は持って生まれた素質があって、そのような行動ができるのではありません。人には見えない苦労の積み重ねがあって初めて相手の立場がよく解るのです。人に言えない自分の苦労が、その人の人間性を造ったのです。人生は有限であり、時間も有限であります。人生や仕事で目標を定めても、心の弱さ、忙しさに負けて、つい楽を求めがちです。しかし、ふと気がつくと、ああもしておいたらよかった、こうもしたかったと後悔することがあります。
自分では多少自信が持てなくても結構です。自己が日常生活の中で、最善を尽くしたものであれば、生きがいが生まれ、自己を確立することが出来ていくのではないでしょうか。
豊かな人間性を養おうと考えるならば、日頃から時間を大切にし、苦に敢然と立ち向かっていく勇気とエネルギーが必要なのです。積極的に挑戦する人生こそ、生きがいの人生だと思うのです。



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三章 「 能力の発揮 」

一水四見「 いっすいしけん 」 (唯識:ゆいしき)

同一の水は餓鬼は膿血と見、魚は住処と見、天女は種々の宝で感動する池と見、人は水と見るようなものであるというたとえであります。このように同一の対象もこれを見るものが異なれば、異なったものとして見てしまうことを言います。
多面的な観点から物事を翌見て、議論しあい、問題の把握、解決の意思統一が出来れば、向かうべき方向が一つにまとまってくる訳です。
問題があるのに問題があるとは気づかないとか、いろいろな現象の表面だけを見て、現象の底を流れる真の問題を掴まえていないとか、問題が発生してから追いつめられたような形で問題を認識するといった事が多く見受けられます。
次に、問題の解決にあたっては、求められる目的・目標を実現するための新方策・システムを創り出すことで、とにもかくにも「何のために」「どのようなことの実現か」という目的・目標の明確化が必要です。 また、問題解決を正しく進めるには、必要な事実の収集が必須の条件です。一般的に悪い情報は集まりにくい傾向にあり、日頃から正しい報告、正しいコミニュケーションが展開されるような風土づくりに、努力していかなければなりません。

なぜ

あまりにも事が多く あまりにもテンポが早い時代
われわれは見聞きする物事を みずからの問題として真剣に考え
素直に問うことを忘れつつあるのではなかろうか
それは
問うべきことががらがなくなったのではなく
やはりそれを考える努力を怠っているからと言えよう
心して見れば
身近な社会や、習慣や、物事の中に
また自然の姿の中に
多く考えるべきことがらが
ひそんでいると思うのである
常になぜと問える新鮮な目と 素直な熱意を持ちたい
われわれのその真な問いと熱意が
われわれの心を 生活を 社会を
より高い次元につなぐにちがいないのだから・・・・・・・・・・・・・・

「PHP」より



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三章 「 能力の発揮 」

有田憂田有宅憂宅 「 うでんうでん うたくうたく 」

「田あれば田を憂い 宅あれば宅を憂う」
どのような境遇にあれども、その場所に満足できることが、その人の能力を最大限に発揮させる根本であります。
逆に、今の境遇に満足しない人は、どのような境遇を与えられても満足することができないものです。働く私たちに、給料や環境条件などの外的報酬についての不満足があったとすれば、たしかに、働くという意欲に悪影響を与えますが、給料の条件が満足されるようになっても大して影響せず、積極的な意欲向上にはつながらないものです。真に意欲を起こさせる要因は、精神的報酬を得た時であります。
即ち、仕事そのものから強い満足感をうることであります。

特に B C D の要因は、それらによって得られた満足感を、長く継続させる性質をもっています。
やりがいのある仕事とは、どんなものかと改まって聞かれると、むつかしい感じがするが、たとえば、男性からみて女房の仕事はつまらないものにみえるが、もし、つまらない仕事だったら女房がすぐ逃げ出す筈なのに、何年も辛抱(?)できるのは何故だろうか、ここに人間の意欲の根源というか、やりがいのある仕事の真相があるように思えます。物をつくる、育てる喜び、創意を発揮する、考えながらやる、そして底辺には愛があるといった事がいえるのではないでしょうか。
いずれにしても、仕事をやりがいあるものにするか、面白くないと考えて実につまらぬ無意味な毎日を送るかは、当事者の考え方にあることを理解して、どんな仕事をも面白くするのだという位の決意を持って、自分自身のしあわせを自分自身でつかむことが必要です。


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三章 「 能力の発揮 」

天命に安んじて人事を尽くす 「 てんめいにやすんじてじんじをつくす 」

昔からの言葉に「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。
この言葉は、今から二千数百年も昔の中国で「孔子」の偉業をまとめました「論語」に出てくる言葉です。

「孔子」の言葉に「五十にして天命を知る」という言葉があります。「孔子」は五十歳にして自分がやろうと思っている仕事は、天から与えられた使命であることを自覚したと言っているのです。
しかし、それは成功するかしないか分かりませんが「人事を尽くして天命を待つ」ほどの思いで努力し、その結果は天の裁きにお任せしようと誓った訳です。このように出来る限りの最善を尽くし、その結果がどう出るかは神妙に待つということです。最初から努力もせずに、尽くすことも尽くさず、何もかも天命に任せて安閑としてはおれないということです。
もう一歩踏み込んで言えば、これだけでは不十分で、天命に安んずるという事は経営する立場の人は、従業員が伸び伸びと思い切り仕事が出来る環境づくりをする事であります。これをせずに、ただ「やれ」の号令だけでは大きな成果は期待で来ません。組織においては、しっかりとした方針、目標を立て組織運営が成されてこそ、安心して精一杯の仕事が出来る訳で、このような環境つくりに日々努力しなければなりません。このように考えてみますと、成功は成功でそれでよしとし、失敗は失敗で他人がどう見ようと常に勉強が出来た、有りがたいことであるという心境になっていくのではないでしょうか。




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三章 「 能力の発揮 」

一念発起 「 いちねんほっき 」


一念発起菩提心の略です。仏の言葉こそが真実であり、その仏の言葉に導かれて、生きて行こうと決断したことを表明した言葉と言われています。

    信の一念、純粋に信じきった姿を表し、信心とも言います。
私達が日頃よく使う「一念発起」は決心して新たな行動を起こす時に使っていますが、簡単には理解できないくらい、大変な重みの有る意味の様です。
その様な私達が新たな行動を起こすとき、はたしてどれだけ信の一念を持って実行に移しているのでしょうか。実行に移して、出来なければ直ぐやめてしまい、また新しく別の事をスタートさせる。
これでは「無念発起」になってしまう。

今バルブ崩壊後の慌ただしい社会情勢の中にあって、人間関係が薄らいでいる今日では尚のこと、信の一念が欠けているようにも思います。この様な時代だからこそ、今一度、自分を見つめ直し、仏の教えを少しでも理解し、信の一念を持って行動を起こしたいものです。


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三章 「 能力の発揮 」

解学 行学 「 げがく ぎょうがく 」


中国浄土教の祖である、善導和尚の教えであります。

仏教は自分が自分を問題とする教えであり、お前は傍観者では ないぞと、逃げようとするのを引き留めるものでもあります。
ここには二種類の学び方が示されています。
    解学とは・・人間の知識的了解を表すものであります、すなわち自分をはずしたところで学び、知識教育であります。
    行学とは・・私のこの現実を問う学びであります、自分自身が問題となり課題となった学びで、いくら知識があっても 間に合わないことの多いことの多い人生を問うことであります。
日本の戦後教育は、まさに解学が中心で知識量は豊富になり、画一人間を大量生産し、便利な物も大量生産し、 経済大国になりました。しかし物の豊かさの反面精神面の不安の増加、価値観の多様化、バブル崩壊のなかでいかに生き抜くか、 今までのあり方、考え方価値観でない行動などへ、脱皮してゆくことが求められているのでしょう。

最近の学生事情を話し合ってみました。大学を出たものの就職先も決まらず、フリーターとか就職浪人が増加するのはなぜでしょうか?

    円高など経済環境がわるい、海外進出で仕事が減っている、など色々ありますね。日本の場合終身雇用で就職でなく就社では ないでしょうか、会社に入ってから自社の業務に合うように教育していますね、誰でも順応性と最低教育を受けていれば使いやすい人が いいのでは? (別に大学を出ていなくても!) 新しいものに対する創造性の高い人、個性のある人は敬遠されているのでは。

企業は人なりと言われています、現代社会のしくみから学校教育、社会教育、企業内教育で知識レベルを向上させることはもちろん 必要でしょうが、その中身「 知識(解学) 」を解体結合させ、そこから向上するであろう行動力、チャレンジ精神、創造力、独創力 「 知恵(行学) 」がいままさに求められているのではないのでしょうか。すなわち置かれた環境の中で自分が見て、聞いて、味て、 触り、嗅ぎ、なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?を繰り返し、新しい事に積極的にチャレンジし、新しいものを創造してゆくことが必要 でしょう。


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三章 「能力の発揮」


我行精進 忍終不悔 「 がぎょうしょうじん:にんじゅうふけ」


「 たとい、身をもろもろの苦毒の中に止まるとも、我が行、精進して、忍びて終に悔いじ 」求道の姿勢の言葉である。
求道の基本は、

一つに、道ありと信じること、・・・・必ず解決方法(ゴール)はあると信じて行動しましょう。
二つに、得道の人ありと信じること、・・・・信頼できる人、善き人と巡り会えることでしょう。

しかし二つ目の得道の人ありと信ず、が極めて困難である。それは「 善き人 」との出逢いが全てである。
「 善き人 」とはその人の前に出ると嘘が言えない、あるがままの自分をされけ出せることにほかなりません、 人として生まれた以上 「 よりよく生きたい 」という願いは誰でもが持つはずで、そのことに気づいたならば、裸のままの自分をさらけ出せる人、すなわち 「 善き人 」との出会いが近くなっているのです。

親鸞 は 法然上人 との出遭いにおいて、 「 たとい、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう 」と言い切られた。 まさに表題の言葉どうりの生き様でありました。
あなたは、すでに善き人、善き師をもっていますか? 又持ちたいと願っていますか。

ある病院でいつも長い時間待ちの科がありましたが往診されている先生が開業されて辞められますとその科、病院は衰退した、など聞いたことがあります。善き先生とはこんな事ではないのだろうか? 又私達は行ったことが成功すれば自分で、失敗すれば他人のせいにする( 他人のせいにしなくてもあまり声を大きくして言わない ) これらは行動、目標に自信、信念が入っていないから、言われてやっているからに他ならない、QCサークル活動などもこんな事になっているのではないだろうか。・・・・の話題にも発展しました。

「 自分がこうしようとよく考えて決めたことは成功しなくても悔いることはない 」 との信念でやれば、その信念と行動が人を動かすことになる、すなわち善き人が集まることにもなるのではないのでしょうか。

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★ 三章 能力の発揮 は今回:淤泥華( 維摩径 )迄です


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